野島清治(山中狐太)と野島一子の文学、連句、絵画 、画像、動画、紙芝居 (詩・俳句・俳諧・連歌) を楽しむ世界  芭蕉 おくの細道 堀田善衞 山田一彦 瀧口修造

新 作

新 作

★2010年1月11記載

宇咲冬男師捌・十八韻順候式雪月花「西住塚」の巻

秋立てる日の翌日、浪化の精舎、風玲瓏なる。元禄の世に芭蕉に入門の浪化上人の住せしさざなみの井波瑞泉寺にて全国連句いなみ大会開催されしに、久かたぶりに越路入りせしは連句協会顧問の宇咲冬男師なり。開会の後に冬男師考案の国際的俳諧式目の十八韻を試みんとするなり。宴の会の千里山荘に向かわんとする庄川の畔に西行・西住連理の歌碑の立つは三谷の里なり。しばし、車を止めて塚に参る。冬男師は、越路の挨拶句出来たりという。会場に着くや『西住塚の句』を薩摩琵琶の寺本拳嶺師が弾き語りで披露、冬男師の旅情を慰めんとす。鬼神をも驚かさんとする演奏なれば、冬男師は胸襟をも緩めささせたもう。いと至福のうちに連句興行巻き始めたり。付け味はかくの如きなり。

順候式雪月花十八韻『西住塚』の巻
         捌  宇咲 冬男

〈起〉 発句   秋   草の香や越に西住塚ありき       宇咲 冬男

    脇    秋     秋情深む乾坤の琵琶         山中 狐太

    第3   冬   千の風天空魂をめぐらせて        山本 秀夫

         冬     着ぶくれし身を子に笑われる     寺林 狸伯

〈承〉雪の座   冬   雪だるまへのへのもへ字解けはじめ  野島 一枝

         恋     乱れ篭には紐の数々         萩野 恭一

         恋   床上手くどき上手の絡み合い          狐太
         恋    沼に落とした約束の鍵             秀夫

             お笑いにコケにされたる党のボス        狸伯

         春     皇居の濠に亀の鳴くなり           一子

〈転〉月の座   春   月朧夢二の女のけぞらす            恭一

             シェクスピアのおちは悲劇に         狐太

         夏   狂いては身ばかり焼く火盗虫          秀夫

         夏    木下闇に羅漢酔い伏し             狸伯

             ようやくにカスバの地下を通り抜け        一枝

               デジカメ画面逆戻しする            恭一

〈結〉 花の座  秋 花灯籠マチスまがいに彩透す          冬男

         秋    中元すませ船の長旅             秀夫

首尾  平成二十一年八月九日
    
於   富山市婦中町、千里山荘
                   

             

★2010年1月10記載

高松光代の歌集評

高松光代歌集『サナギ・サナギ』に心騒ぎて寄せる

 越境する魂魄は桃色

                     野海青児

 「あの世から見ている壁の鳩時計 わたしが何処にも居ない明るさ」

 あの世から見ている、のは死後の私か、彼か。否、やはり私であろう。壁の鳩時計はうつつ。もう鳴かない鳩時計。それとも、いまも鳴き続けているのだろうか。鳴き止んだあとの一瞬の詩的空間がこの作品を生んだのか。下句の「何処にも居ない明るさ」の透明な光は何色。私が居て、私がいない。存在隠しのゲームはいとおもしろ。悲しくもあり、おかしくもあり。蕉翁の軽みとは、この境地かや。生死を越境する脱魂表現は希有にして、凡夫の及ぶ所にあらず。脱帽するばかり。

 「ボサボサのボサノバの唄ぼろぼろに身体なるまで染み通らむと」 

 下句の「染み通らむと」に収斂する「ボ」の音の下降感覚が愉快。「ぼろぼろに身体なる」と「染み通らむと」とが結合して得体の知れない存在感を感じさせる。『港』に発表の最初は「しみ通る液」では「視覚願望の時間」表現のイメージが残ったが、そのイメージを消して象徴化したのは定家流か。ともかく「染み通る」に真摯な自己の凝視があり、感ずることは悲劇であり、考えることは喜劇であるといった沙翁の箴言が彷彿。

 「何となく胡散臭きは九官鳥 今日も内股に止まりておれど」

 みごとな擬人法。ステレオタイプに対する怒り、あらわなり。内股に止まりておれどは鋭き風刺なり。

 「かがやくは蟹の甲羅のコガネ色 遠く砂丘の裏側に消ゆ」

 輝くものはやはり遠近法の中に収まるのか。「蟹の甲羅のコガネ色」は比喩でなく、蟹の甲羅が暗喩として動き出せば、だせよ。

「皮を剥けども皮ばかりなる棘韮跳びぬ二、三㍍」

「暗がりにかそけき声に呟くはおきざりされし玉葱なりけり」

  皮ばかりのものといえども、跳びはねる生命力。ブラックホールの中で呟いているのは核のない玉葱。たとえ仮生のものといえど、それが発する不可聴の音。それは正しく生命の音であるに違いない。

 「守護霊というを一度は懲らしめん膨みて立つ七重の塔」

 わが運命に対するはにかみ。「いやな奴」だわと怒ってみても、所詮は自分以外の何ものでもない。下句「膨みて立つ七重の塔」がおもしろい。屋根一つでは軽い。七つも重ねてやっと怨霊を封ずることが出来るのか。人類の所業、いとあわれなり。

 「目にも見よ 葉の尖先端切り落とす素っ裸の水の形を」

 「切り落とす」に作者の強い宣言がある。「素っ裸の水の形」は生命の象徴。禅天魔にも似た諦念の冷徹さ。 

 「離れゆくものに惹かるる水滴のしずごころなき波動振動」

 「離れ行くもの」は他者か自分か。物とうつつつに対する愛情、いとつのれば、ものくるしゅうこそなめれーである。「しずごころなき」と「波動振動」の付け句に妙味あり。「しずごころなき」は「波動」に一体化する前のおそれか、喜びの緊張感か、その波動力学いとにくし。

 「ひそひそと身は枯れゆかむ 疑いの露のしずくをふりこぼしつつ」

 これはまさしく悟りの境地を示した偈といえようか。いにしえの高僧の残せし「弥陀たのむ人は雨夜の月なれば雲はれねども西へこそゆく」の歌の「雲」と光代女史の「露」が響きあっている。あらゆる認識も存在も疑いである。これを積極的無常観と呼ぶのだろうか。

★2009年10月記載

白洲次郎と反戦川柳

新憲法制定の黒子と反戦川柳
富山大学教育学部第一中等教育科昭和35年卒業生同期の集い 談話資料 野島清治

新憲法の制定の舞台裏に関わった白洲次郎をモデルにしたテレビドラマが再映された。徹夜で確定案成文に取り組む、日本側代表の白洲らと連合国側の白熱したやり取りがクローズアップされた。それをドア越しに察知してた人がいたことは、テレビは映し出さなかった。舞台の黒子こそだれあろう、富山県高岡市出身者であった。当時内閣秘書官で文書課長であった岩倉規夫元国立公文書館長である。

○ 黒子役の岩倉規夫氏
 岩倉氏は元逓信大臣で戦後、枢密院顧問で不慮の死を遂げた南弘氏(氷見市生、高岡市の南兵吉家養子)の娘の子、孫であった。天皇側近の和平派の漢詩人であった南氏の目にかなった官僚であったから幣原喜重郎内閣で重用された。バロン幣原と連合国軍側からも尊敬を受けていたのは戦前に国際連盟でのロンドン軍縮会議で全権委員として活躍した和平派であったからである。占領下から独立をいかにかちとるか。幣原氏は日本側の切り札であった。東久邇宮終戦内閣が倒れたあとの幣原内閣の最大の課題は国民の食糧難の救済(松村謙三農林大臣担当)と明治憲法の改正であった。幣原の相棒は元英国大使の吉田茂氏。和平派のスパイ容疑で軍国政権の東条英機側憲兵に身柄を拘束された吉田茂氏。危ういところで生き残った吉田茂の懐刀として戦後、活躍したのが、ドラマの主人公役の白洲次郎であった。吉田茂の英国大使時代から親交が深かった。
 白州は吉田の命を受けて終戦連絡中央事務局参与、さらに同局次長として連合国軍総司令部民政局(G1)の窓口の折衝に当たった。同軍政局G2の窓口に設置された河邊虎四郎(砺波市出身、旧陸軍参謀本部次長)機関の中で旧帝国海軍側を代表したのは同じ砺波市出身の中村勝平海軍少将であった。白洲はケンブリッジ大学出身のジェントルマンで自己の信念に忠実で、敗戦国民としての卑屈さとは無縁であった。英国流の理論で連合国軍総司令部の無理難題を批判した。一方、海軍兵学校をトップで卒業、東郷平八郎元帥の縁戚でもあった中村勝平少将は米国武官時代にハーバードやプリンストン大学に留学を経験しており、英語が堪能。艦上での降伏調印の設営、海外からの復員促進を図る一方で米国の民主主義の理論で占領軍の蛮行をきびしく指弾した武将であった。
 昭和二十年十月二十五日、国務大臣松本烝治をキャップとする憲法問題調査委員会が設置され、岩倉書記官は特命でこの松本委員会に専従、日本国憲法成立の舞台裏を記録した。

○永久戦争放棄は幣原案
 天皇を中心とする国体護持を基本とする松本案は連合国総司令長官のマッカーサー元帥から極めて保守的とみなされ、マッカーサー草案が二十一年二月十三日、テレビの場面にもなっていたように吉田外務大臣官邸で手渡された。吉田、松本両大臣に立ち会ったのは白洲次郎氏であった。三月四日に提出した松本案をたたき台にマッカーサー草案と突き合せて徹夜で確定案が作られた。ケージス民政局次長が日本語の表現に事細かく追求したので松本大臣は自宅に帰ってしまった。しかし、総司令部側は徹夜で確定案作成を指示、松本担当大臣は高血圧を理由に欠席、日本側は佐藤達夫法制局第一部長(後の人事院総裁)がケージス次長らと渡り合う。交渉が難航すると佐藤部長が隣室に駆け込み、岩倉書記官に相談。翌五日四時過ぎに確定案は出来上がり、閣議を経て午後五時三十五分幣原首相は参内、天皇に奏上した。翌三月六日、日本政府の憲法改正草案として公表された。(以上の記述は昭和五十八年二月八日から十五日までに富山新聞朝刊一面に連載の「天下に道あればーとやま・戦後政治の証言」に掲載の岩倉規夫氏の証言を元に構成。当時、筆者は社会部長としてこの連載記事のデスクを担当。専従記者は元東京報道部国会担当の経験を生かして再取材、記事を仕上げた)。
 白洲次郎がこの歴史的な場面に登場していないが、テレビでは日本側の立役者になっている。わが国の憲法調査委員会側は佐藤部長ひとりであるが、佐藤達夫本人の著書『日本国憲法成立史第三巻」第二章第三節「逐条審議」の項によると、「白州氏にもときどき発言を頼んだ」とある。白州次郎は憲法成立を急ぐGHQ側の緊急国際情報を流しながらこの逐条審議に立ち会い、時には発言した事を明らかにしている。ただし、同第三巻発行は平成六年であり、佐藤氏逝去(昭和四十九年)からかなり時間が過ぎている。G2情報部にも人脈を持つ白洲氏の関与は当初、極秘だったのかもしれない。同著書の著作権は娘婿の佐藤孝志元高岡市長であることも因縁めいている。
 第一条の象徴としての天皇の件は天皇自ずからご同意なさった。問題の第九条の戦争の永久放棄の件はマ元帥が提示した帝国憲法改正三原則にある事から、連合国側の押しつけだとする憲法改正論者も後を絶たないが、幣原首相の「外交五十年」によれば、戦争放棄は自らの信念による、と記述しているし、マ元帥も解任後の昭和三十二年、米上院、軍事・外交合同委員会でこの「戦争放棄の幣原案」を裏付けしている。いずれにしても立場を異にする両者が国際情勢を踏まえての「戦争放棄案」の主役である、と考察しなければなるまい。

○カントの永久平和論
 このようにして生まれた戦争放棄の新憲法は米国大統領のオバマのチエンジによって、国際社会の聖典としてライトアップされつつある。憲法を改悪しようと企んできた政権も国民の審判によって野党に下った。原爆の唯一の被爆国であるわが国の外交路線として反戦、反核の主役を担わなければならない。それは誰か。筆者は新聞記者に採用される前に数ヶ月、上市町の剣岳登山口にあった中学分校で社会科と国語などを担当したが、当時の社会科の三年の教科書にカントの「永久平和論」の名が出てきたので教室で岩波文庫のそれを読み聞かせた事を思い出す。唯物論史観からすれば、カントは観念論者として排斥された歴史は否めない。しかし、人間の理性や正義感はその時代の状況によって解釈の違いを生み、戦争を正当化して来た時代は長い。わが国の近代史はいかんながら、戦争肯定の時代が長かった事。反戦の歌人として評価が高い与謝野晶子も太平洋戦争時代に戦争翼賛の短歌を発表している。しかし、反戦の川柳で弾圧、検挙されて拘禁の身のまま赤痢で死去した鶴彬は隣の石川県かほく市高松町の出身であった。反戦川柳に生涯を賭けた人生模様が映画「鶴 彬 こころの軌跡」(神山征二郎監督)が今春、完成、各地で自主上映されている。

 「屍の居ないニュース映画で勇ましい」    鶴  彬
 「手と足をもいだ丸太にしてかへし」        彬
「カラクリを知らぬ軍歌で勇まし」      中島国夫
 「進軍ラッパのまぶしい錯覚」          国夫

 鶴彬の川柳の相棒の中島国夫は富山市大沢野町の出身であった。旧陸軍省技術本部の将校でありながら、ある時は資本論講読会を主催、夜は新興川柳の元祖・井上剣花坊の柳樽寺にこもり、反戦川柳を発表していた。特高の尾行をまいて駆け込んだ鶴彬を匿ってくれた柳樽寺。剣花坊亡きあとの信子夫人を生活面でも支えたのは中島国夫であった。異色の画家・篁牛人が剣花坊に入門したのは、中島国夫の手引きによる。戦後、信子夫人を選者に迎えて川柳雑誌「川柳人」を富山市で復刊、反戦、反核川柳の拠点としたが、その相棒は牛人であった。

 「決死行何の兵やる気さらになし」        篁 牛人
「直接に死なねど徐々に死にまする」(水爆実験亡者室) 牛人

 筆者は鶴彬映画作製呼び掛け人の一人として昨年九月、高松の鶴彬祭で上演の創作琵琶「鶴彬 反戦川柳は永遠の正義なり」の台本を担当、記念講演、鶴彬の仲間であった富山県人の中島国夫や篁牛人の反戦、反核の川柳も紹介したが、半世紀以上の時代を経て鶴彬や中島国夫、篁牛人らの反戦川柳を鑑賞すると、時代を越えていろいろの光芒を発している事に気付かされる。

★2009年10月 

芭蕉の鵜船

芭蕉と謡曲「鵜飼」の本歌取り
                野島清治

芭蕉は謡曲から多くの本歌取りをしている。芭蕉が長良川の鵜飼に感激して披露した「おもしろうてやがて悲しき鵜船哉」は世阿弥の「鵜飼」が下敷きになっている。芭蕉が岐阜の長良川河畔の十八楼に宿を取り、鵜飼を取材したのはおくのほそ道の旅に出る一年前の元禄元年六月のことであった。『笈日記』には漢文を見習った「十八楼の記」で河畔の風景を絶賛しているが、岐阜の仲間に対する挨拶としては、かなり腰が浮いた名調子である。しかし、謡曲の「鵜飼」は地獄に堕ちた掟破りの鵜飼を安房の聖が法華経で救う仏教節談調であるから、芭蕉は襟を正して「悲しき鵜船」を書き起こしている。

 《 岐阜の庄長良川の鵜飼とて、ことごとしう云いののしる。まことやその興の、人の語り伝ふるに違はず、浅智短才の筆にも言葉にも尽べきにあらず。「心知れらん人に見せばや」など云て、闇路に帰る、此身の名残惜しさをいかにせむ。
おもしろうてやがて悲しき鵜船哉 芭蕉 》

 真蹟懐紙を底本に『定本芭蕉大成』(加藤楸邨ら共著、三省堂)にも「悲しき鵜船」が収録されている。
 ところが、文章の後段部分「闇路に帰る、此身の名残惜しさをいかにせむ」は謡曲本からそっくりいただいている。
 例えば宝生流初級謡本第三巻の十六、十七ページにわたる行に掲載されている。「此」は「この」、「「いかにせむ」は「いかにせん」に表記されているが、そっくりさまであることは否定出来ない。芭蕉は謡曲「遊行桜」や「江口」などをヒントにした発句が目立つが、紀行文の地の文で「拝借」は珍しい。『芭蕉二つの顔』の著者の田中善信学教授は、芭蕉の謡曲の稽古は小謡百番くらいの程度で、本格的な稽古はしていないようだ、と指摘しているが、殊、「鵜飼」に関しては全巻に目を通している、と考察しなければなるまい。また、宝生流の小謡本には「鵜飼」が入っていない。あまりにも悲惨な題材であるからだろうが、法華経の功徳によって「鵜船を弘誓の船」として阿弥陀に救われるのであろうから、このそっくりいただいた行など小謡本に収録されても悪くはない、フレーズではなかろうか。

 田中教授の説を尊重するとしたら、芭蕉が幼少期に謡曲小謡本を身につけていた。老に入ってから、「悲しき鵜船」を執筆の際に改めて謡曲「鵜飼」に目を通し、そのさわりの部分を頂いたのかもしれない。それにしても、このころは鹿島根本寺の仏頂禅師について禅の修行を積んで居たことを考えるなら、この「悲しき鵜船」の絶唱ぶりは、聖道門のご仁のなせる業とは理解に苦しむ。やはり、色の道懺悔の身の芭蕉らしさはここに極まれりと、云わなくてはならないのかもしれない。
                平成二十一年九月八日未明、初稿

第2稿

 芭蕉の故郷の愛弟子の服部土芳の「三冊子」の黒冊子にはこの長良川の鵜飼見物に関連して、芭蕉から聞いた鵜匠の手綱捌きの極意を披露している。
 師一とせ岐阜に鵜飼見の時、鵜尉一人に十二羽宛、舟に篝して其のひかりにこれを 遣ふ。十二筋の縄、たて、横にもぢれて、さばきむづかしき事を、事やすく是をなす。 鵜尉に此の事を尋ね侍れば、先もぢれぬよりさばきて、なまもぢれ成るものを又さば く。むづかしくもぢれたるもの、ひとりほどけさばくるといへり。万に此心はあるべ し、となり。
 芭蕉が「おもしろうて」と感動したのは、このような鵜匠の手綱捌きであったかもしれない。謡曲の「鵜飼」の法華教説話の下敷きがなっかったら、「やがて悲しき鵜舟」と暗転しなかったに違いない。2002年9月にニューヨークの世界貿易センタ同時テロの翌日、小生らが参加した松村謙三生誕100年記念訪中団の一行は璃江を船下りして到着した船着場には立派な鵜匠がいた。国民文化祭岐阜連句大会は芭蕉縁の十八楼ホテルで開かれ、国の無形文化財の鵜匠の演技を見物した事を思い出した。富山市を貫流する神通川の中流近くに鵜坂という地名が残っており、奈良の天平時代に越中国司として着任した歌人の大伴家持の歌にも「鵜坂川」と詠み込んだ歌があることを思えば、もう奈良時代には中国南部の鵜飼の漁法が渡来していた訳になる。驚いたことに鵜匠の装束は中国、日本も同じであった。千数百年を隔てても変わらないのはなぜか。智恵のある日本の僧か、渡来僧がそれを伝えたのだろうか。
 しかし、璃江の鵜匠は無断で写真を撮らせなかった。日本人と見ると、千円と手を出したのには、「やがて悲しき」の思いであった。璃江の観光事業は当時は国営であったとしたら、中国の要路の人には芭蕉の「やがて悲しき」仏教的無常観は通じなくなっているのかも知れない。
平成二十一年九月二十五日

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