野島清治(山中狐太)と野島一子の文学、連句、絵画 、画像、動画、紙芝居 (詩・俳句・俳諧・連歌) を楽しむ世界  芭蕉 おくの細道 堀田善衞 山田一彦 瀧口修造

山田一彦の謎

消息不明の超現実主義の詩人・山田一彦

   瀧口修造、三浦孝之助、北園克衛らと同時代に活躍

                           野海青児

 わが国のシュルレアリスム(超現実主義)研究者の鶴岡善久らの研究によっても消息不明の詩人とされていた山田一彦は瀧口修造(富山市出身)、三浦孝之助(上市町出身)共とに西脇順三郎や北園克衛らと並ぶ先駆的な前衛詩人として活動した富山県出身者であった。富山県福野町の旧家・山田家の一族の出身であったが、いまはその生家もなく、絶家となり、近所にもその名を語り継ぐ人は見つからない。

 富山県内の詩人列伝を書いた稗田菫平の『詩の回廊 とやま近代詩100年』や『現代詩宝典』にはその名がない。小説『運 不運』で改造社の第二回文芸賞受賞の池田源尚(富山県井口村出身)が寄稿した『文学アルバム』(平成元年三月十四日付けから富山新聞文化欄で五回連載、49回から55回)や田中清一(氷見市)の『郷土の文学』池田源尚の項目にその名が見えたが、鶴岡善久が論じた山田一彦と同一人物である確認はされていなかった

『郷土の文学』によると、池田源尚が最初に小説『運 不運』を発表の同人誌『麦』(昭和十五年発行)に山田一彦が朝山洋太郎のペンネ ムで参加していたことが、池田源尚からの聞き書きで記録されていたが、出身地が福光町となっていた。『文学アルバム』にも、出身地が特定されていなかった。地元でこのような不確かさであったから、消息不明の詩人とされたことも止む得ないのかも知れない。しかい、山田一彦を消息不明にしたものの姿が別にあった。

昭和五年に制定された治安維持法で合法化され、戦前の表現の自由を踏みにじった思想弾圧とわが国の侵略戦争の体制が山田一彦を消していたのではないか。フランスのシュールレアリストの中でもレジスタンス詩人として知られるエルュアルやアラゴンら左派の詩人の作風に通底したエスプリを持つ山田一彦の名が、この弾圧の法の施行と時期を同じくして詩壇から見えなくなったのはなぜか。弾圧で消されたのに違いない。このような確証が筆者の調べで膨らみつつあることを明記しなければならない。

 「私を文学に目覚めさせた砺波中学同級生の山田一彦は、シュルレアリスム(超現実主義)の詩の方へ走り、西脇順三郎や北園克衛らと付き合っていた(中略)そのころの文壇は川端さんら新感覚派の表現を重んじる『形式主義』とプロレタリア文学の『内容主義』との二派に分かれて煮え返るような論戦が支配していた」(私の文学アルバム50) 池田源尚にとって文学上の兄とも言える山田一彦

彼はわが国の近代詩の詩壇のなかで有力なシュルレアリアリスト・超現実主義者として光芒を放つ。しかし、忽然として姿を消していた。いや、戦前の思想弾圧の中で巧妙に消されていたフシがあり、そのためか詩壇では消息不明の詩人となっていた。

 ◎戦後復刻の『衣裳の太陽』別冊覚書で佐藤朔が注目
 戦後復刻の詩誌『衣裳の太陽』別冊覚書『日本のシュルレアリスムー大正から昭和』(1987年七月記)で佐藤朔は「『衣裳の太陽』の瀧口、北園、冨士原、山田一彦(私はこの詩人のことはよく知らない)などの作品は、いずれも重要である」 と、面識もない山田一彦を同志の瀧口と共に評価している。

 同じく同覚書の解説『シュルレアリスム詩誌の誕生』(1996年刊)の中で鶴岡善久は彼の消息不明を嘆き、その異質のヴァイオレンスを惜しんでいる。戦後、『衣裳の太陽』六冊はフランスで翻訳、出版されており、山田一彦の反戦的フモールの散文詩「花占い」(第3号)や「天国への通路」(第4号)もその中に含まれている。フランスの詩人や研究者が、「不明の詩人」が不明でないとなれば、その諧謔のルーツを探求するために日本を訪れる日が必ず来ると確信する。

 同時代のフランス文学者の佐藤朔の山田一彦の評価と相呼応して鶴岡善久は同じ復刻版別冊解説の中でそのユニークなポエジーを高く評価している。「花占ひ」【巻末資料】の中から「全世界の軍人さん達が一緒に髭を剃って机を らべて礼服のカウスに詩を書く日であります。  而し諸君軍人が挙手の礼をする寝台の上の皿に向日葵が紅葉して居るのを見給へ。もう秋が人目をくらましてこっそり来ているのではないでせうか 」と、引用して「この詩には何ともいえぬ奇妙なとぼけたところがある。

一読ふっと肩から力が抜けるようなはぐらかし。そして荒唐無稽なストーリイと突然異質なものに結びついていくイメージの偶発性  。さらにここでもっとも注目すべきは、山田一彦の詩に登場する〈軍人〉が当時とくに重々しかったすべての権威を剥ぎとられてカリカチュアライズされていることである。こうしたカリカチュアの手法に権力への批判を潜在させる詩の書き方はどの詩人も行っていなかったのである。

そういう意味ではフランスにおけるアラゴンらのシュルレアリストがコミニズムに傾斜していった過程と、山田一彦の詩観がどこかで連結しているような気がするのである」と、アラゴンらと通底する回路を見つけている。まさに炯眼というべきだろう。続けて鶴岡はその一ヶ月後に発表の『天国への通路』から「ラウドスピカへ唇をあてて活動写真をアルコールで消毒しやう。ついでにその黒い手袋の細い電話の糸を歯磨刷毛で磨いておかう。天国への路は坊主頭のように球に似て居て理髪したウニのように不潔だ」のフレーズを取り上げ、解説、評価している。

 「音を出すラウドラスピーカーへ逆に唇を当てる。これがそもそも逆説的論理なのだが、そのうえ唇を当てるという不衛生によってアルコール消毒を活動写真にほどこすという二重の逆説。そして〈唇〉から連想される〈黒い手袋〉。さらにラウドスピーカーのコードから連想される〈細い電話の糸〉へと発展するイメージの非論理性天国への路が坊主頭=球に似ているという予想を絶する発想。いずれもきわめてアイロニカルで刺激的である。〈理髪したウニのように不潔だ〉というものすごいブラック・ユモアは絶品であるとしかいいようがない。

とげとげのウニが理髪することなど誰も想像がつかない。そしてそれがまた〈坊主頭=球〉へとさかのぼって連結し、それさえ不潔であるという逆説。それでいて瀧口修造の詩の硬質な金属的シャープさに比して、山田一彦の詩のフット、ワークは軽妙である。そして読み込むほどにナンセンスなのである。〈軽薄は卵のカラであるか 卵の紙幣を売って卵を買へ〉 『衣装の太陽』最終号に掲載された山田一彦の詩(「UNE VOIX ETERNELLE」)の部分にも大変興味深いフレーズが散見される。

北園克衛は同じく最終号の文章中で『天国への通路』を高く評価し、〈彼は一個の不透明な種子〉であると山田一彦を定義している。この〈透明な種〉山田一彦のその後の消息不明は、そのまま日本のシュルレアリスムの重要な部分の行方不明といえよう」

このように鶴岡氏は山田のそのしたたかなフモールの特質を取り上げ、その一種のフォーマリズムの作品評価は別としても批評眼の鋭さは否定できない北園の評価までを引用して絶賛しているいるではないか。

また、同復刻版の解題で和田博文は「瀧口修造や西脇順三郎(YAKOBUS PHILLIPUS)や山田一彦の詩も充実している」と、「不明の詩人」山田一彦に注目している、その存在の悲劇的確認によって、山田一彦の再評価に拍車がかかるだろう。
 
鶴岡氏は生前の瀧口修造からそのまじめな研究ぶりを紹介されたことがある。鶴岡氏が一九六六年出版した『日本超現実主義詩論』の巻末に収録の『シュルレアリスムの年譜』も瀧口氏の監修を得るなど一部の誤った詩壇史を勇敢に訂正するほどの慎重さで編まれている。
 
ところが、その鶴岡氏が同書の中で、北園と並べて無内容の言語遊戯の作品として同『衣裳の太陽』第2号の「PHONO DE CIRQUE」のフーズ「ミユジイクの眼鏡をかけたミユジイク/はサアカスの遠い声である ミユジイ/クの白い馬はサアカスの遠くなる厚い/帽子白い馬は写真のリボンとともに鍔/にうすくなる遠くなる煙の帽子をかむ/せている」を「単なる言語遊戯にすぎない中身のないうつろな」作品として槍玉にあげていた。シリアスなエスプリを持つ冨士原清一を評価する鞘当てに北園(戦時中には体制翼賛となる)批判のつむじ風に山田一彦を巻き込んだとも思えるが、この詩は山田のナンセンス詩と理解すべきでなかろうか。

 ◎鶴岡善久の山田一彦の逆転評価

 同復刻版の鶴岡氏の解説で山田一彦に対するう前出のような“みごと”な逆転評価はどうして生まれたのか。前著における批判から三十年ばかりの時間を経た読み込みによる再評価が鶴岡氏によって述懐されているようである。

 このように山田一彦の詩の本質はフランスのレジスタンス詩人のアラゴンやエリュアルらに通底するフモールを持つ。軍人が国を支配して国を滅ぼしたファシズムを風刺した作品として『天国への通路』を鶴岡氏が高く評価しているが、そのことに気が付いたなら、官憲はいかなる手段をこうじても生かしておけないと激怒したであろう。

戦前・戦中の思想弾圧を担当の特高警察は日本のシュルレアリストの中でもコミニストらが陣取る同左派との関係の有無に焦点を当てていたことは、治安維持法違反の疑いで検挙された瀧口修造が体制側のその意外なほどの詳しさに驚きを交えながら明らかにしているように、その左派の作風に通底したものを感じさせる山田一彦はどのような弾圧を受けたか、想像に余りある。

 このような状況の暗雲の中で、それこそ友人、池田源尚の証言がなければ、詩人の魂が浮かばれないままにこの郷土からも葬り去られる恐れがあった。

 連載文学自伝・池田源尚『私の文学アルバム』(49)によれば「五年制の旧制中学で四年生を二度する羽目になった。この二度目のクラスメートに文学少年の山田一彦がいて大いに啓発された。文学の目覚めである。彼は秀才であったが、ほとんど登校せず、不良少年を装っていた。私と会うと、ダダイズムやニヒリズムという最新流行の文学思潮を、たばこを吹かしながら吹きかけた。

彼は四年修了で一足先に法政大学に、私は中学を卒業すると、日本大学にそれぞれ入学した。彼はのちに「日支事変」に召集され…」 砺波高校・旧制砺波中学の同窓会名簿の大正十五年三月、第13回卒業者名簿には池田源尚の名前は記載されているが、四年修了生の山田一彦の名前を見つける事が出来ない。火災に遭っているためか、学籍簿での確認も無理であった。校友会誌にその名を探してみたが、駄目であった。山田一彦は何処の誰か分からなかった。友人の池田源尚はすでに亡くなっていたからである。

 ◎砺波中学でダダイズムを吹き込む

 それにしても当時の大学生でも知らなかったモダニズム芸術の母体となったダダイズムを田舎の中学生が論じていたことも驚きであるが、ヨーロッパで勃興した新思潮をどうして知る事が出来たかも謎と言わねばならないだろう。

やがて西脇順三郎、北園克衛らと共に超現実主義の前衛詩人仲間として名を残している瀧口修造(旧制富山中学出身、慶應義塾大学英文科卒業)や『とやま文学17号』特集で同じ仲間として顕彰した三浦孝之助(富山中学で瀧口と同級生、慶応義塾大学英文科卒業後、大学院一学年修了、旧制魚津中学、富山中部高校教諭などを経て新湊高校長から慶応大学に転身、現役教授で死去)らがダダイズムを論ずるのは大正十四年にイギリス留学から帰国して母校・慶応大学教授となった西脇順三郎の門下としての活躍からである。

外国人の英語の教師を雇っていた富山中学の学風の中で育った瀧口、三浦の中学時代にも山田一彦のような伝説が残っていない。瀧口、三浦と同じ詩人仲間であった山田一彦のこの動きが一、二年早く、しかも草深い砺波中学で起きていることを注目しなければならないだろう。
 
山田一彦は明治四十一年五月三十一日、同郡福野町で生まれた。死亡届けの住所は同町東横町一八一四番地。江戸時代から加賀藩の穀倉地帯の蔵宿として栄えた同町の旧家の山田六兵衞の分家筋である。明治五年、今の町長に当たる初代戸長で福野町の三代目町長だった山田七彦(一八三八-一八九八年)の孫として生まれた。父の名は研作(大正十三年三月二十七日から十四年六月二十九日まで同町収入役)。一彦はフランスにも紹介されているわが国のモダニズム詩壇の主要なメンバーの一人であったが、行方不明の詩人とされていた。

友人の池田氏の話によると、同十二年の日中事変の「南京攻略で戦死」と伝えられていたが、当時戦死者を詳報している富山日報を隈無く検索したが、その名はなく、途方に暮れた。その後、筆者の調査で昭和十九年八月一日、中国の戦線、長沙で病死していることが判明した。死亡したときは陸軍上等兵であった。未亡人・フミさん(明治四十四年四月十三日生まれ、本籍・清水市草薙二丁目1731番地の5)も平成六年三月三十日に清水市承元寺町一三四一番地で亡くなっており、絶家となっている。

◎祖父・麦里と宮永以足の連句
祖父の七彦は幕末には藩の広域農村の役人も務めた旧家の山田家の五代・六兵衛(俳号・伯芝・義仲寺無名庵主・寺田砺山のスポンサー)の三男として天保元年三月生まれ。約六百石の地主で「詩百篇」の銘柄の蔵元でもあった本家の隣に分家、酒屋販売経営の傍ら麦里の号で俳諧の宗匠として全国にも知られた文人であった。

祖父・七彦の住所は福野町新町1364番地。本家の当主・山田正景は福野町初代町長であったので最初の町役場は明治二十二年六月十四日から二十四年二月二十七日まで分家の七彦宅に庇を借りていた。その役場跡を示す資料を『福野の史料』に見つける事が出来る。

七彦は雅号からして新興俳諧を唱えた加賀の俳人・堀麦水の新興俳諧の流れを汲む新知識人であったと見られる。幕末に芭蕉をしたって美濃、尾張、奈良、大阪、京都あたりまでも俳諧紀行を試み、維新になってから町の長老として芭蕉二百回忌を興行した。

福野町高堀の善鉦寺に「山里の雪は汚れて風ぬくし」の句碑を持つ麦里は、俳人・宮永以足(三兄・菽園は備後・細川侯藩儒。勤王の志士として新撰組の犠牲になった宮永良蔵の叔父でありながら維新の激動期に全国を漂白行脚、晩年の明治十九年に下川崎(小矢部市)に帰郷。井波町の芭蕉高弟・浪化上人縁の黒髪庵に仮寓、「下萌に衝かれて乾く古葉かな」の句を残す)を支援、蕉風連句の普及、振興に尽くした。以足との両吟歌仙『青柳行』などの史料が『福野町俳壇史』に収録されており、年を経ても明治維新の動乱期をしぶとく風雅の道を貫いた両者の俳諧精神の響きに接する事が出来る。

 ◎池田源尚を同人雑誌に手引き
 昭和十五年に同人雑誌『麦』に発表の小説『運 不運』で第二回文芸賞を受賞の作家・池田源尚が後の芥川賞作家・倉光俊夫らの同人雑誌に最初に加わったのは法政大学時代学生時代の山田一彦の手引きによる。

 「東京の大学生活で私は決定的に文学への道を歩むことになる。のちに芥川賞作家となった倉光俊夫も法政にいて、ある日、山田によって紹介された。初めての同人雑誌『木車』は倉光が山田らと出し、2号目に誘われて加入した。この号に私は『窺 (うかが)う』という十九枚くらいの短編を発表した。大学予科一年の昭和二年七月のことであった。当時流行の新感覚派ばりのものである。この作品が片岡鉄兵の目にとまり、朝日新聞の文芸時評で取り上げてくれ、新入りの私が一躍『木車』の代表的作家になってしまった) (『私の文学アルバム49』)
 
池田源尚のデビュー作が発表の『木車』第2号・七月号は見つかっていないが、第3号・九月号には倉光が編集後記を書いている。小野十助(十三郎)が抽象図形入りのモダニズムの詩四編を意欲的に発表している。「動かざる魚のセイソクする弾條仕掛火薬性の腕時計の平面板に描かれた作品」などのフレーズのようにダダイズムと言うよりはシュルレアリスムの傾向の作品群であり、当時の前衛芸術を切り開こうと言うエスプリがこの同人誌に満ちあふれている。読後感のページには小野は『文芸耽美』から橋本健吉(北園克衛)らの作品、『文芸公論』から久野豊彦の『ボール紙皇帝満歳』を評価している。この『木車』三号の後に倉光俊夫を編集者に東京・至玄社から発行したのが、文芸雑誌『花卉幻想』である。

昭和三年十二月五日発行の第2年第7号の十二月号が甥の上田千之氏によって池田源尚宅で見つけられた。この号は二年目とあるから、創刊は昭和二年九月から十二月の間。隔月発行で少なくとも七号を数えた事になる。七号の執筆陣は山田一彦と池田源が中心になっている。
 
◎『花卉幻想』と『薔薇・魔術・学説』、『衣裳の太陽』の主要同人
一方、その『花卉幻想』創刊の時期と相前後して創刊されたのは前衛詩誌『薔薇・魔術・学説』(昭和二年十一月一日創刊)である。『薔薇・魔術・学説』の二号(編集・北園克衞編集、発行人・冨士原清一、同十二月一日発行)から山田一彦が参加している。七ページから十一ページにわたる詩劇的長い詩『海たち』作品を発表している。この号2号には、当時、帰国したばかりの西脇順三郎に論争を吹きかけることが出来た論客の上田敏雄(山口県出身のフランス文学者、戦後、山口大学教授)とその弟の上田保のコンビ、冨士原、北園が作品を発表しているが、上田敏雄はポール・エリューアルの「VIVREICI」を翻訳、紹介している事を忘れてはならない。

『薔薇・魔術・学説』は翌・三年二月の三号で終巻となっているが、終巻号には、山田一彦は六、七ページに詩作品『悪魔の影』を発表、上田敏雄は西脇と北園、上田保のそれぞれのオブジェ論を批評している。シュールレアリスムの大きな支柱となるオブジェ(瀧口修造によれば、昭和十二年に瀧口がプロデュース、みずゑ主催の海外超現実主義作品展で初めて紹介の七つのオブジェの分類は①自然②災害③数学的④レディメイド⑤未開人⑥掘り出し物⑦シュールレアリストーの各オブジェ)についても、詩の方では美術のオブジェより十年も前に取り上げられており、我が国での先駆的論考である。

加えて、この三号でトリスタン・ツアラのダダ7と10宣言が上田敏雄の翻訳で紹介され、エリュアルの詩が上田保によって翻訳されている事に注目すべきである。これらのダダやフランスのエリュアルら左派のシュールレアリストの作風を意識していてもそれに通底するエスプリのの濃度の違いが、西脇の超自然主義、北園の硬質感覚的シュール、瀧口の夢の大国のシュール、山田の反体制的フモールのシュールと分極化する。
 
一方、山田、池田の『花卉幻想』創刊のこの昭和二年には『薔薇・魔術・学説』の旗揚げの向こうを張って西脇を中心とするグループによって『馥郁タル火夫ヨ 第1集』が出されている。三浦孝之助、瀧口修造がそこででデビューしている。そして、お互いにオマージュを残しているを三浦孝之助と一番ウマがあったのは上田敏雄であり、論客の彼の仲立ちによる両グループが合体して世に問うたのが『衣装の太陽』である。山田一彦はそこで同じ富山県出身の三浦孝之助と瀧口修造と共に力量のある作品を競争するような勢いで発表、他のメンバーにひけを取らない。今から考えると富山のトライアングルであった筈だが、この三人に取っては、故郷の精神風土には反発するベクトルを共有しても、故郷を懐かしんで酒を呑むようなことは、なかったのかもしれない。


昴のよううに遠い世界で燦然と光をゑ放つ詩人の魂は、なぜ故郷の人々から仰ぎ見られなかったのだろう。その悔いに似た疑問が大きくなるばかりである。};
 
しかし、不思議な因縁、西脇流の環のある世界のよううに、遠い関係の存在も同じベクトルを持っているからに違いない。昭和四年一月一日発行の『衣裳の太陽』第三号の生原稿が三浦孝之助の遺族の三浦桂子さんが保管しており、三浦氏の旧制魚津中学時代の教え子の詩人・高島順吾氏のお力添えでそのコピーを戴いた。瀧口、三浦と並んでその中に山田一彦の「Mon cinematoguraphe bleu」の原稿がある。

文末に資料として紹介する。「神楽坂 山田用」と名前入り原稿用紙を使っており、金釘流の北園らと比べてもよく書き慣れた筆跡であり、ペンで飯を食っている作家の雰囲気がある。「(前略)ですから私は碧い花弁の義眼をはめてコメディアのシネマを作るのです それはもうイエルサレムの月に退屈した蟹の虹色の泡を吹いて白百合をささへる姿です」。かなり神話的深刻なテーマを扱いながらもこのフレーズはシュールレアリスムの手法を使いこなして、からっとしており、どこか俳諧的なおかしみが沸いて来るから、不思議。根に風狂の精神が脈打っているからだろうか。

◎反戦詩『花占ひ』と『天国への通路』の背景
◎同じ第三号の巻頭を飾った山田の『花占い』は「ヨカナンの恋」のサブタイトルが付いている。終末の世にキリストの出現を予言したバプテストのヨハネ(ヨカナン)の首を取ったユダヤ王の娘・サロメを題材にしており、当時台頭しつつあったファシスト達を風刺している。

このフモールは、先に紹介したように鶴岡善久から絶賛された『花占い』『天国への通路』に発展する。山田のこの手書きが残るこの作品で取り上げた聖地「イエルサレム」は当時、まだユダヤの国家にはなっていなかったが、いまも、キリストを最後の晩餐で裏切ったユダの問題と綯え合わされて、生々しく後を引き、中東紛争など戦争の火種となっていることを考えると、山田の詩人としてのエスプリの強靭さに胸をえぐられるが思いに駆られる。
 
山田一彦の神話的悲劇の構成を持つこの長い散文詩を是非声を出して朗読してほしい。オオトマチンズムの詩法がビートを生んでいる。先に取り上げた『花卉幻想』十二月号に発表の詩歌劇風な作品『MADEMOISELLE TARQUIE』のすぐあとに書き気上げられた作品であり、この『花卉幻想』十二月号には、「私たちはヴェヌスの腕をトロアのヱレヱヌに借りよう。戦のあとに残る麦酒瓶と猫・ お願いだから・上靴の無い猫よ音を。たてないで逃げておくれ」のようなインパクトのフレーズも見られる。ヴェヌスは両腕のない代理石像のミロのビーナス(美の女神)。トロイの木馬の戦争は、トロイの王がマケドニアの王妃・ヱレヱ(エレーナ)の美貌に惹かれて略奪、それを奪回の戦争であるから、この作品は『花占い』の下敷きになった作品と見ることが出来よう。「薔薇が薔薇としてスリッパをあきらめて薔薇のやうに咲いた日にー」のフレーズなどはビートが効いている。
 
このように昭和三年末から四年にかけて作者の精神の高揚期であった事を伺わせる。これらの山田一彦の活動は瀧口修造らの劇的散文詩にも影響を与えているようであり、それは悲しいことに思想弾圧の治安維持法施行の前夜のカーニバルであったのかもしれない。
  
◎あまりにも長い不明の期間 
 『衣裳の太陽』は昭和四年七月一日発行の第6号で終刊になった。終刊号には先に鶴岡善久が注目の山田一彦の[UNE VOIX ETERNELLE]が発表されている。その六ヶ月後の同五年一月一日に同じ仲間で発行の『LE SURREALISUMU INNTERNATIONAL』には山田は「REVOLUTION あるひは転形期感想」を発表しているが、これも冨士原清一の編集・発行。仏蘭西書院が定価五十銭で発売している。三浦孝之助が「想像のァキンボ」(とやま文学・三浦孝之助特集、二百二十四、五両ページに収録)、瀧口修造が「実験室における太陽氏への公開状(Ⅱ)を発表している。
 
これを最後に、山田一彦の作品資料は、筆者には見つかっていない。昭和十五年に池田源尚と共に発行の同人誌『麦』創刊号には、朝山洋太郎のペンネームで参加していたが、その『麦』はどこにあるのか。そして昭和十九年八月一日、中国の戦地での病死。高等教育を受けており、その気になれば士官も困難ではなかったろうが、あくま上等兵であった事の意味は何か。

フランスの抵抗詩人に通底する詩人の魂と反戦的理性の持ち主であれば、軍隊での生き方は困難を極めたに違いない。思想犯の疑いで背後から味方の兵に撃たれたケースもあったし、伝染病の生体実験に使われ、「丸太」として殺害されたことも明らかにされている。山田一彦の死亡の状態はいかがであったか。戦友の証言を得られない限り、余りにも不審であり過ぎる。また、死亡通知先の住所・福野町東横町一八一四番地には、彼の自宅の確認も出来ない。町の古老の調査でもその地番では江戸末期から明治、昭和の初期にもその名が見あたらない。

ただ、福野神明神社の入り口には戦前には長屋があった事を池田源尚の甥の上田千之氏から教えて頂いた。最後の住所の謎解きの可能性がでてきた。しかし、昭和五年から十九年までの空白は余りにも長い。昭和十五年の朝山洋太郎のペンネームの使用を考えると、思想の弾圧で地下に潜ったか、右翼も左翼も流れた満州鉄道関係の満州映画会社に潜ったか、あるいは、国内の新聞や映画会社に潜ったか、いずれにしても当時の福野町の地元とは遠い関係にあったに違いない。英霊として帰国しても、それを迎えた妻の他にだれがいただろうか。詩人の魂は、その余白の部分に今も彷徨っている。

                                      
山田一彦の次の作品リストはわずかな手元の資料によるものである。諸兄石姉のお力添えをお願いしたい。
▽昭和二年十二月一日発行『薔薇・魔術・学説』第1年第2号
     「海たち」
▽同 三年一月一日発行同第2年1号
      「無限の弓」
▽同 三年二月一日発行同第2年第2号
     「悪魔の影―OU ESPACE,SANNS HYPOTHESE」
▽同 三年十一月一日発行『衣裳の太陽』創刊号
     「寛大の喜劇 ☆Muse abstraite 天使になった俳優 opera      indulgent payasage  Commique Comedie      indulgennte」(5-7)
▽同 三年十二月一日発行同第2号
      「二重の白痴 ou Double Buste」(7)
      「CINEMATOGRAPHE BLEU」(8)
      「PHONO DE CIRQUE」(9)
▽同 三年十二月五日発行文藝雑誌『花卉幻想』第2年第7号・十二月号
      「MADEMOISELLE TARQUIE」(49-53)
▽同 四年一月一日発行『衣裳の太陽』第3号
      「花占ひ ouIamour d IOKANAAN」(1-3)
      「Monn cinematographeBleu」(4)
▽同 四年二月一日発行同第4号
      「天国への通路 ou Quand I Eternel s aproshe de la fin deL ETERNITE」(28-31)
▽同 四年四月一日発行同第5号
      「Poesie d OBUJET d OBUJET」(26-27)
       「桃色の湖の紙幣」(28)
▽同 四年七月一日発行同第6号
       「UNE VOIX ETERNELLE」(6-9)
▽ 同 五年一月一日発行『LE SURREALISMU INTERNATIONAL』
▽       「REVOLUTION あるいは転形期感想」(13)

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