野島清治(山中狐太)と野島一子の文学、連句、絵画 、画像、動画、紙芝居 (詩・俳句・俳諧・連歌) を楽しむ世界  芭蕉 おくの細道 堀田善衞 山田一彦 瀧口修造

おくの細道の謎Ⅱ

おくの細道の謎Ⅱ

○元禄二年に藩主が舟見で昼食 
 元禄二年当時は黒部川の平野部への出口に日本三大奇桟として名高かった愛本の刎橋が架っていた。参勤交代の北陸道の官道は金沢を出発、越中に入って滑川ー魚津ー三日市ー浦山の宿場から愛本橋を渡り、対岸の宿場・舟見にたどり、泊、そして国境の関所に至ったのである。

 加賀藩史料第五編によると、元禄二年のその年の三月二十九日に金沢城を出発した加賀藩五代藩主・前田綱紀の参勤交代の一行は四月九日に江戸に到着。十日間の日程であったが、その初日の二十九日は高岡、四月一日魚津で宿泊、翌四月二日には愛本橋を渡り、舟見本陣で昼食を取り、境の御旅屋で宿泊している。三日名立、四日関川、五日矢代、六日追分、七日板端、八日熊谷、九日の昼食までに江戸に到着している。

 この藩主の旅行中の四月四日、幕府から指名手配の探索に関連して、「他国者往来一宿の旅人にても、不審なる者候はば、その支配の御奉行より早速案内有るべきの事」とのお触れが出され、芭蕉のような他国徘徊者の取締りが強化されている。
 また、この年は洪水が多かった。五月十日には大雨で能登と越中で洪水被害が大きく、越中で六十六軒流失、四十三の橋が流され、堤防が大半被害に遭っている。

 芭蕉が金沢入りした七月十六日は快晴(曾良日記)となっているが、金沢浅野川右岸の観音山が崩壊して浅野川を埋めたのは集中豪雨で地盤がゆるんでいたからだろう。九月五日には八月七日から修繕工事中の犀川橋が完工している。ところが、同じこの九月五日、名代の愛本橋が焼失してしまった。江戸で藩主・綱紀は八月九日に将軍拝賀の席はご三家に次ぐ座列に昇格、将軍からの覚え目出度き関係を確かにしたが、その慶事の留守の間の出来事であった。芭蕉が越中、加賀を通過した後の不審火であった。

 寛文二年(一六六二年)の愛本橋架橋の際には加賀藩の筆頭家老本多安房守ら重臣が軍事上の砦の役目をする黒部川に橋を架ける事に猛反対、これに対して綱紀は「国の安危は政治の得失にあり、山河の嶮岨によるべきならず」と説得、外作奉行・篠井七兵衛正房に命じてカラクリ仕掛のような橋脚なしの刎橋を建立させた。長さ三十三間。両岸の岩盤から斜めに刎ね上げる重層の支柱には欅材を組み合わせ、差し渡しの長い木材は近くの明日山(あけびざん)法福寺領の杉の大木を伐り出して掛け渡した。法福寺は高野山系真言宗で加賀藩主の菩提寺の一つであり、加賀藩梅鉢紋を飾る法福寺山門前では参勤交代の藩主は籠を降りて参拝するのが慣わしであった。特に藩主綱紀は正室の父の会津藩主・保科正之(三代将軍家光の弟で四代将軍・家綱の後見役)から儒学の朱子学はもちろん、神道(幕府神道方・吉川惟足の儒家神道)の手引きも受けた。古代中国の君主の道を理想とした名君の誉れが高い。例えば、九十歳以上の高齢者には一日五合の扶養米支給など福祉政策、大日本史編纂を始めた水戸光圀に劣らぬ書府の確立、職人養成と保護策などを積極果敢に施した。愛本橋架橋はその徳政を象徴する施策であった。

 この綱紀は江戸往復の際は元禄二年に続いて元禄三年、四年、五年と舟見本陣で中休みをしている。愛本橋架橋につれて設置された浦山と舟見の宿。初期の舟見本陣の主は筆者の家系の一族の野島家であり、後に野島総本家は加賀藩十村役として黒部川扇状地の開拓のために入善に引越しを命じられ、その後任に脇坂太郎右衛門家が就き、信州など国境警備隊長役の加賀藩黒部奥山回役を歴代務めた。その本家筋の近年の当主は脇坂雄治元愛知大学長であった。幅の広い濠を回らしたその本陣屋敷跡に昭和の終戦前後、前田家縁の烏丸大納言が疎開、当主は海軍軍医上がりで筆者の心臓が少し右寄りである事をはじめて診断した名医であった。このように愛本橋架橋に伴なって設けられた舟見本陣もその堂々たる濠跡も埋められ、宅地化してもはやその面影を残していない。

 三大奇桟の愛本橋は大正時代に鉄橋となり、それも戦後の昭和四十四年八月十一日の大洪水で流失。数十メートル下流に現在のアーチ型橋に架け替えられた。元の刎橋の二分の一の模型が黒部市歴史民俗資料館に展示されており、元愛本村等を含む宇奈月町を合併した黒部市の市長も旧愛本刎橋復元を施策目標の一つに掲げはじめた。

 一方、国道8号線黒部大橋右岸下流約百㍍の入善町上飯野の旧街道橋詰に奥の細道記念碑が建てられている。上野洋三、櫻井武次郎両氏によって芭蕉自筆本と鑑定の「芭蕉自筆奥の細道」の書体の拡大コピーによる黒部四十八が瀬とかや 数知らぬ川を渡りて那古と云浦に出」の段が石碑に刻まれている。また国道新8号線に「黒部四十八ヶ瀬橋」が架り、大きな記念碑と看板が掲げられている。これらは、芭蕉の文筆の彩のおかげで平成九年に入善町で「奥の細道サミット」が開催された賜物であろう。この辺りの下街道は中世までさかのぼる。

 この辺りの下街道は中世までさかのぼる。
 「源平盛衰記」に寿永二年(一一八三年)木曽義仲勢の今井兼平軍が「鬼臥・寒原打過テ、四十八箇瀬ヲ渡シテ、越中婦負郡呉服山ニ陣ヲトル」とあり、黒部川の「四十八が瀬」の文献初出である。『義経記』でも義経一行が黒部四十八が瀬の渡しを越え、越後にむかっている。文明十八年(一四八六年)加賀の社僧・尭恵は魚津で長雨で足止めに遇い、「四十あまり八の瀬ながら長雨にひとつうみともなれる頃かな」の一首を残している。長享三年(一四八九年)五月二日越後から越中に入った詩僧・万里集九は黒部四十八が瀬の急流を大竹につかまって渡り、滑川に向かっている。
  
 ○三千風の二番煎じを忌避
 ところが、江戸時代に入り、黒部川上流に愛本刎ね橋が架けられてからは、芭蕉を除いてほとんどの文人、墨客は愛本橋を渡っている。池大雅、高山彦九郎、荒木田久老、頼三樹三郎らは紀行や詩文を残している。芭蕉と同時代の貞門俳諧師匠・大淀三千風は芭蕉の「おくのほそ道」の六年前の天和三年(一六八三年)に仙台を出発して全国行脚の途中北陸路を越後から越中に入った。六月十二日に愛本橋を渡り、「日本第一の奇桟」と絶賛「橋より下に見る川音の白雨かな」の一句を残した。元禄二年に発行の『日本行脚文集』にこの愛本橋見物紀行を載せている。越中では約一ヶ月滞在、滑川,富山,高岡などで句会を催し、貞門の有力な俳諧人と交流を交わした。二泊三日の行程で越中の俳人にも会わずに風のように去った芭蕉とは大きな違い。 芭蕉の晩年の弟子・浪化上人はその越中素通りを嘆いて句集『有磯海』などを編んだが、芭蕉の心中は計り知れない。
 
 芭蕉が愛本橋の句を残せば、当時俳諧師として全国的に有名であった三千風の二番煎じになってしまう。誠を責める蕉風を確立のための旅人であった芭蕉としてはそれは耐え難き事であったに違いない。また、芭蕉が故郷の伊賀で仕えた藤堂家と加賀藩筆頭家老の本多安房守家との繋がりは深く、本多安房守が架橋に反対した愛本橋に触れる気持ちが起こらなかったのかもしれない。その芭蕉の心中を察してか曾良も「雨ツヾク時ハ山ノ方ヘ廻ベシ。橋有」と、天下の奇桟・愛本橋の名すら記録していない。やはり共同正犯の謗りは免れないだろう。

 ○舟見本陣の脇坂氏建立の芭蕉の句碑 
 江戸時代の同じころ愛本橋を渡った近藤磐雄編『金砂子-加賀松雲公』には「之処は水蒼ふして深きこと不可知、瀬早き事大石の流るゝ音、遥かの頂に聞ゆ」と黒部川のただならぬすごさを書きとどめているが、黒部川から三㌔ばかり離れたわが故郷・旧舟見町に育った筆者は洪水になると、その轟音が聞こえ、大石のぶつかるときに生ずる青白い火花を見た記憶は生涯忘れられない。

 また、元禄から時代は下って天保五年(一八三四年)に舟見本陣で黒部奥山廻役であった脇坂太郎右衛門が舟見の真言宗寺院十三寺境内に芭蕉の「うらやまし浮き世の北の山桜」の句碑を建立、この「北の山」の立派な句碑は今日も同寺境内に保存されている。同じ「北の山」の句碑は金沢市の北陸街道の入り口に位置する同市神谷内町二番地の野蛟神社の境内にも建っている。もとは北陸街道脇に建っていたと伝えられる。芭蕉と共寝の門弟で加賀俳壇の重鎮であった句空編集の『北の山』の題名となった発句である。北の山は「加州白山奉納」の前書が付いている。加賀の霊峰・白山に対するオマージュとされる。加賀藩国境山岳警備隊長のような役職の脇坂氏がなぜこの芭蕉の句を選んだのか。芭蕉の徳川家に対するオマージュ「あらとうと青葉若葉の日の光」の加賀版とも解釈が出来よう。幕府神道方の吉川惟足、吉川源十郎と加賀藩主・綱紀、後に作事奉行にもなった生駒万子(加賀藩重臣・津田玄幡姉妹による浪化上人の相婿、加賀俳壇のスポンサー、吉川神道シンパ)に結び付く芭蕉随行者の曾良。その主人役である芭蕉。「くろべ四十八が瀬とかや」と、山手の愛本橋を渡らなかったように書き残した芭蕉。幻術使いのようなこの芭蕉に関する何らかの言い伝えがあり、国境の黒部奥山を警備する舟見本陣の脇坂氏はその謎を解く加賀藩の機密を知っていたのではないだろうか。

 その機密の一つに信州に抜ける隠し道の問題がある。

 
 (俳号・中山狐太、富山県連句協会事務局長、元洗足学園魚津短大非常勤講師として連句実作指導もした)

  =この芭蕉論は『連句年鑑平成二十一年連版句版』に発表の論文に一

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